つめからコラム

第1回 山忠工務店 代表取締役 山下英典


結婚十年目、玉のような元気な男の子を、四人目の子どもとして授かりました。
名前は『陽生』。太陽のように、兄弟を、家族を、周りの人たちを照らして生きる子になるようにと名付けました。

生後10ヶ月を過ぎた頃、夜寝かしつけてもなかなか寝る事が出来ず、私はすぐ裏にある川原に、寒くないように小さな毛布にくるみ、陽生を抱えて寝かしつけに行きました。
いつも通り、川の流れる音を聞かせると、安心したのかすぐに眠ってしまいます。
帰り道、彼の体は少し熱く感じましたが、寝入って体温が少し上がったのかな??という程度にしか思っていませんでした。

私は東京都清瀬市で工務店を経営しております建築大工です。
その翌日、自宅近くで仕事をしていたので、昼食を食べに家に帰ると、陽生は39度を超える発熱でした。
昼食を終え、妻の片付けの傍ら陽生を抱っこして寝かしつけようとすると、時折体が『ビクッ!!…ビクッ!!』と痙攣していました。
今思えば、それが彼と私たち家族の人生を大きく変える予兆だったのでしょう。

忘れもしない、2004年(平成16年)10月23日の土曜日の夕刻、仕事を終えて片付けを始めようとしていた時、携帯が鳴りました。
妻がかなり慌てた様子で、『陽生の痙攣が止まらないの!!』とのことで、私も慌てて現場引き上げ自宅に向かいました。

自宅の布団の上で、小さな体を痙攣させ、目からは涙が大量に溢れ、鼻水が流れ、口からは唾液とも泡とも思えるようなよだれを垂れ流し、それはあまりにも無残な光景でした。
ほどなくして救急隊が到着し、搬送する途中も陽生の痙攣が止まる事はありませんでした。

隣に寄り添い、陽生の小さな小さな手を握り、『頑張れ!!パパが付いてるから大丈夫だよ!!』叫ぶように彼に語りかけました。
その時の陽生の目は、明らかに『助けてパパ!!苦しいよ…』そう私に語りかけていたのを覚えています。

その時が、彼が健常者として居られた最後の瞬間、いえ、障がい者として生きて行く始まりの瞬間だったとは、誰も想像していませんでした。

病院に着き、処置室に運び込まれ、陽生がベッドに寝転んだ瞬間でした。
病院の大きな窓ガラスが、「ドンドンッ!!」と、大きな音を立てて揺れました。
それが、新潟中越沖地震であったと、数日経ってから知りました。

座薬を注入し、陽生の痙攣はようやく治まりましたが、最初の痙攣から30分以上経過していました。
所見は、熱性痙攣でしたが、痙攣の時間も長いため、他の病気の疑いもあると言う事で、注意深く経過を診る必要があるとの事でした。
熱性痙攣であれば、翌日には帰れると言う事だったので、私も妻も大丈夫だろうと思っていましたが、翌日、翌々日になっても彼の意識が戻る事はありませんでした。

数日が経った頃、担当医に呼ばれて話しを聞くと、『急性脳症』の疑いがあると言う事で、最悪の場合死に至る事もあり、生存しても重篤な後遺症が残る可能性があると宣告されました。
当時の私は、『動けないで寝たきりの人生を送るならいっそ…。』そんな事を考えていたのをはっきりと覚えています。
生後10ヶ月の小さな体には、点滴や投薬用など、何本もの針の先に繋がるチューブ、心拍や酸素濃度を計測するコードに繋がれ、抱くことも儘ならない状態でした。

妻はその管を避けながら、嬉しいような、悲しいような、なんとも言い表せない表情で、何も言わずに彼を抱っこしつつ気丈に振る舞います。

病院からの帰り道、妻は抑えていた気持ちが爆発し、運転する私の車の隣で狂ったように泣き始めてしまいました。
道ばたに車を止め、彼女を抱きしめ、どんな言葉を掛けて慰めたのか、自分でも良く覚えていません。
そして、彼女は徐に、「目が覚めなくてなくても良いの!!ただ生きていてくれて抱っこ出来ればそれで良いの!!!』と。



入院から約10日、ようやく陽生は目を覚まします。
入院する弟を心配し、お見舞いに来てくれた陽生のお兄ちゃんお姉ちゃん。
私は、変わり果てた弟を、お姉ちゃんもお兄ちゃんも受け入れてくれるかどうか、とても心配でした。
病室のガラス越しに見るお姉ちゃんの顔は、子供とは思えないような慈悲に満ちた、優しい目をしていました。

入院から80日、ようやく退院する事が出来ました。
ぐったりとして痩せ細った身体、無表情な顔。この子は、私たち家族のことを忘れてしまったのではないか。そんな不安の中、私は父親として気丈に振る舞っていました。

ある時、お姉ちゃんとお兄ちゃんが陽生をあやしていると、『あは…あは…は…』。
神様は、陽生に「笑顔」を残してくれたのです。

親ばかと言われてしまうかもしれませんが、陽生の笑顔は、家族や学校の仲間、お世話になっている病院の方々を魅了し、癒すことができる、不思議な力を持った「笑顔」となっていました。

家族に、笑顔の意味、生きている意味、幸せの意味を教えてくれた「陽生」。
私は彼のように困っている人のために何かしたいと常日頃考えるようになりました。
そこで、今回、消防団仲間の佐藤くんが「つめから」というプロジェクトを立ち上げると聞かされ、ぜひ協力させてほしいと伝えたところ、「コラム書いてよ!」と依頼されました。
しかも、「プラスの言葉で書いてほしい!」とのこと。

正直なところ、辛い経験をプラスの言葉でどのように表現してよいか悩みましたが、障がい者と健常者の垣根をなくすきっかけをお伝えできればと考え、コラムを引き受けました。

皆さん、身障者用のマークがあるトイレであれば、陽生のような障がい者は誰でも安全に用を足すことができると思っている方が多いと思いますよね?
陽生の場合、発症当時は小さかったのでベビーベッドがあれば、介助をすることは可能でしたが、現在は5年生で身体が大きくなり、身障者マークのついているトイレでも、身体が大きく介助することが儘なりません。

また、近所に買い物に行きたくても、車椅子や、身障者用バギーを乗降させるリフト、スロープ付の車を駐車して、安全に乗り降りさせるスペースがある駐車場付の施設は限られています。

健常者と全く同じように出かけられるとは思っていませんが、少しでも陽生や同じように介助を必要とされる方が出かけられるようなトイレや施設が増えてくれることを望んでいます。

皆さまの優しいお気持ちで、「エクストラベッド」が設置されているトイレが増えてくれたら、陽生たちの垣根が少しは埋まるのかな?

私も含め、人はいつどうなるかわかりませんから、少しでも思いを寄せていただき、このコラムが考えるきっかけとなってくれたらと思います。

実は…

ここまでの文章は、「つめから」がスタートした2015年3月に書いたものですが、その直後から私を取り巻く環境が一変しました。

それ故、コラムをお待たせしてしまい大変申し訳なかったのですが、発起人の佐藤くんより「掲載するのを先に延ばそう。時期が来ればUPすればよい。それまで待つから。」と。

詳しくは書けませんが、私は山忠工務店を辞し、本年4月22日、カイロプラクティックを開院いたしました。

陽生のことで悩み、学び、繋がった人。
沢山の学びや出会いから、私は私と同じように苦しんでいる人や家族を、少しでも癒したいと考え、導かれるようにカイロプラクティックの道に進みました。

私の願いは、「自分の大切な人はいつでも笑っていて欲しい」と、いう事です。
陽生が笑ってくれた事、それは笑顔の大切さを学ぶ事でした。

笑顔で居られるには、やはり心も身体も健康である事が大切なのだと痛感しました。

“誰だって誰かの大切な人”。もちろん私も、今読んでくださっているあなたも、必ず「誰かの大切な人」なのだと思います。

陽生の笑顔は、魔法みたいな笑顔です。
彼が笑うとみんなが癒されて、みんなが陽生のとりこになってしまいます。
それは、心から純粋に笑うからなのだと思います。

みんなが心から笑顔になれる。子供みたいに笑える。

そんな生活の第一歩を切ってもらえる事が、私の願いです。

一人でも多くの人が健康になり、誰かのために笑っていられる。
これが陽生から学び、得た、大切な大切な事でした。

まだまだ駆け出しですので、焦らず少しずつ「つめから」と共に活動していきたいと思います。